「あん」を観て。
「わたしたちはこの世を見るために聞くために生まれてきた。
だとすれば、何かになれなくてもわたしたちは
わたしたちには、生きる意味があるのよ。」
命が限りあることを実感したとき、まず思ったのは「死んだら何も見られなくなるんだな。」ということ。
だから、この言葉には切実なものを感じる。
強いとは
強い人間とは、どうゆうことなのだろう。
強いは優しいを伴っていなければならないのでは。
でないと、他者を傷つけることになってしまうと思う。
でも、傷つけまいと思うあまりに自分を痛めることも。
わたしはこれから、少し他者より自分を大事にしたい。
静かに自分の意見を言える人になりたい。
カラスの子ども、その後。
15日(火)に、カラスの子どもが保護されている公園の前を通った。
保護に使われていたゴミ収集箱が無くなっていた。
周辺もきれいで、高い木の上から見ていた親カラスも居なくなっていた。
無事に飛び立てたのだろうか?
どうなったのか、聞いてみたい。
ネコの世話をしている人に会ったら、たぶん知っているだろうから問いかけてみようと思ってる。
今は、よい方に考えるしかないだろう。
思いがけない展開
翌々日の10日(木)、カラスの子どもの様子を見たいような見たくないような気持ちのまま公園へ行ってみた。
気温が低く雨模様だったので、もしや・・・の不安もあった。
あのゴミ箱はあるのだろうか?
あった。
傘を広げて、カラスの子どもが雨に当たらないようにしてあった。
そして、水に濡れないように保護されたA4の紙に「カラスの子どもがいます。親カラスが威嚇するかもしれないので、近寄らないでください。」と印刷されてカゴの前に留めてあった。
すごい・・・と思った。本気だ。
そして翌日、また見に行ってみた。
そしたら、市の名前がある工事現場などで使われるコーンが置いてあり、黄色と黒の模様のついた棒が渡してあって、強力な立ち入り禁止体制になっていた。
市が動いたのか?
そもそもゴミ箱も、公共のものだったけれど。
カラスの子どもをお世話した人が、普段から市と濃い繋がりを持っているのだろうか。
こんなにまで手厚く管理されるようになるとは、夢のようだ。
手負いのからすの子どもに関わったことで、辛い思いをするかもしれないと思っていたが、大人も捨てたもんじゃないと救われた気持ちになった。
生きていた
昨日は、公園に見に行かなかった。
夕方からは、雨が降ってきた。
カラスのこどもは、もう死んでいると思っていた。
今日、自転車で公園の前を走って、横目で見たらゴミ収集の時に使う入れ物が木のそばにあった。
あの中に死骸があるんじゃないかと思った。
2時間後、用事を済ませて再び公園の前を通る。
違う道でも帰ることは出来るのだけど、やはり気になった。
まだあのゴミ収集の入れ物は同じところにあった。
新しい花の苗が、たくさん植えられているのに気がついた。
あまり人気の無い小さな公園だけど、人が出入りしたんだなと思った。
通り過ぎようかと思ったが、思い切って自転車を止めて公園へ入った。
カラスと思われる黒い塊は、どこにも見られなかった。
ゴミ収集の入れ物の中を覗いた。
そしたら、あのカラスの子どもがいた。
入れ物の半分くらいの段ボール箱の蓋を切り取った中に入れてもらっていた。
そして、ネコのえさやパンくずが散らばっていた。
わたしに気づくと、声を出してくちばしを大きくあけて食べ物をねだっていた。
もらい慣れている様子だ。
この公園へネコの餌やりに来ている人が助けてくれているんだ。
ひょっとして、そういうことがあるかもしれないと思っていた。
最初に見たときは羽しか動かなかったのに、数日後まで生きていたということが若干不思議であった。
ひょっとして、ネコの餌やりに来ている人が・・・と思ったいたが、やはりそうだった。
とても穏やかな感じの中年のご婦人だったので、カラスとはいえ邪険にはしなかったのだろう。
カラスの子どもが餌を欲しがるので、そこにあったキャットフードを5個ほど投げ入れてやった。
子どもの大きな声がすると、そばの高い木に止まっているおとなのカラスも大きな声でこちらを向いて鳴いている。
親なのだろうか。
見守っているんだ。
これなら安心かもしれないと思った。
万が一悪さをする人間が居たら、襲いかかるだろう。
2日前よりかなり元気になっていて、立てるようになっていた。
がんばって、飛び立って行ってほしい。
お礼と感謝の気持ちを書いたメモを、箱の中に置いて帰った。